一人短歌結社 ざるそば

小泉夜雨による一人短歌結社 ざるそばのブログです。月に一度、結社誌を公開します。

ざるそば二周年ネプリ 公開のおしらせ

 

お世話になります。先日ネットプリントにて公開をしておりました「ざるそば二周年記念号」を、こちらでも公開いたします。

なお、画像の後に簡単な感想を書いております。よろしければそちらもご覧くださいませ。

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https://drive.google.com/file/d/1M7YbtMoXqSNvDtfArPgWMwRkUJVWaY7g/view?usp=drivesdk

 

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ワトソン紙にうすくのばしたうすみどりやがて世界の影になる場所

揺らす/戸似田一郎


うすみどりの時点で薄いのに、それをさらに薄く伸ばす。緑は草木を連想させるからか、安らぎとか癒しを表す色として用いられがちなのに、のびのびとするどころか心許ない印象の方が強い。薄くなっていく絵筆の色で描かれていくのは何だろう。

連作を通して読むと不在だったり別れを連想させるような構成をしていて、なんだか走馬灯のようだ。漠然と取り残されて行くような、雲を掴むような、幻想を見せられているような、模糊とした雰囲気が漂う。そういう一瞬一瞬の場面に対して世界は影をゆっくりと落としていく。のばしに伸ばしたうすみどりは、やがてつうっと消えてしまうのだろう。儚さが際立つ歌だと思った。

 

 

生活を改善したいテーブルが名前を思い出せるくらいに

カイゼンシタイン/岡田奈紀佐


テーブルは物を置くためにある物ではあるが、ここにはその前提を差し引いても余るほど物が積まれているようだ。テーブル「が」名前を思い出すという擬人化が良い。意思を持っているような描き方をすることにより、なんとかしてあげなくてはという気を、主体にも読者にも引き起こさせる。

ところでカイゼンシタインも、なんだか人名のような、競走馬のようなタイトルだ。改善したい(ん)というところから来ていると思われるのも面白く、悩みの種がありつつも楽しい暮らしが垣間見えてくる。全体に細かな視点のある連作だった。

 

 

 

このところとんとあのひとみませんね かげろうみたいなひとだったかね

湖底の村/深原滄


滄さんはひらがなの歌が巧みだと常々思っていて、語の持つ柔らかさと一体になった不穏さに惹かれる。この歌もその一つだ。

「あのひと」をしばらく見ないという話をしている、二人の人がみえる。近隣に住む物同士の噂話だろうか。上句にいくつも散らばる〈と〉が、歌うようにリズムを作る一方、下句に表されるのはだったかね、という記憶の曖昧さと「かげろう」。具体的に描かれていないため蜃気楼か昆虫なのかは不明だが、いずれにせよ短命で、儚い印象を受ける。掴みどころのない、流れていくような一首。

 

 

 

「キミは赤いほうにしなよ」となまはげの青い顔ハメ選んでわらう

笑った青鬼/雨虎俊寛


浜田広介の「泣いた赤鬼」から来ていると思われるタイトルと一首。

旅先によくある顔出し看板を撮ろうとキミを誘っている。と言っても主体はもう先に青い方を選択しているうえに「赤いほうにしなよ」というゆるい強制をしている。キミはこの後、多分一緒に写真に写ってくれるのだろう。この距離感がなんとも心地よい。童話はもの悲しく終わるが、この主体とキミとの関係は良好に続いていきそうだ。楽しい旅の思い出、気のおけない仲間とのやりとりを追体験できる連作だった。

 

 


すばらしいビーフジャーキーわたしには噛みごたえだし君には味だし

壁と屋根/御殿山みなみ


詞書に「ただいま〜」とあるので、帰路を描いているのだろう。壁と屋根の連続が街を作っていて、その容れ物にはそれぞれ異なる価値観の人が住んでいるということを再認識する一連だ。

ただ価値観は誰とも全く噛み合わないというわけではない。ベン図的に重なる部分があって、信号を無視しようとする人と出会ったり、ビーフジャーキーがすばらしいときみと感じあったりしている。自分の内心で思い描いている人や物、それらへ思いを馳せながらも自分を歩き進めていく主体像が浮かんだ。

 

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ゲストの皆さまのおかげで素敵な紙面となりました。あらためましてありがとうございました。